第九話。
本格的な冬がやってきた。一年最後の月が訪れ、何かとせわしない空気が街を包んでいた。東京で雪が降った日はまだ一度もない。昼間は薄い層の雲が並んだ水色の空が広がり、夜は澄んだ深い紺色の空が広がるようになった。目を凝らすと一等星の輝きがネオンに負けず輝いていた。日を追うにつれ陽も短くなり、帰路に着くころにはすでに日が落ち始めていた。
平日の午前は学生の数は減ったが、社会人は年末の三日前ほどまで休みはない。交差点が赤信号に変わり、社会人の一団は足を止めた。その一団に静雄は混ざっていた。制服の上にコートを着込み、手には手袋を首にはマフラーと冬の装いに身を包んでいた。息を吐くとそれは白く曇り、やがて街に溶けていった。
――― 冬、だなぁ
鞄を持ち直し、静雄は青信号に変わった横断歩道を渡った。道行く途中ふと脇を見れば店先がクリスマスで彩られていた。恒例のツリーに赤や青や緑のメタリックで塗られた丸い飾り、星形に切り抜かれたシール、窓ガラスには白いスプレーでサンタクロースとトナカイが描かれていたり、様々な装飾が店を飾っていた。ついで商品に視線をずらせば、クリスマス特価と言わんばかりに様々な商品が割り引かれていた。
――― クリスマスか……
ふと思えば、クリスマスはそろそろでは無かっただろうか。携帯でカレンダーを確認すれば、クリスマス二日前だった。二学期が終わってからも、ずっと教師の有志で行われている補講で学校に通っていたため全く気にしていなかった。
――― 確か臨也の奴、明日家に来るよな
いろいろお世話になったので折角だから何かしようかなと思い立った。
背中や腹が悲鳴を上げるが、鎮痛剤のおかげで耐えれないものではなかった。それ以上に優先すべきものが今自分の腕の中にあるのだ。肩から感じられる温かさを、臨也はあえて追求しなかった。
第十話。とりあえず完結。
その日は朝からさわやかな快晴だった。これで着納めとなるだろう制服に袖を通し、在学時と変わらない着崩しで、玄関先の鏡の前に立った。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
静雄は母親に見送られながら、家を出た。
国公立二次試験合格発表日。多くの受験生たちが喜び、悲しみ、涙を流す一日である。
静雄は発表開始時間に合わせて家を出た。すると、冬の寒さがまだ残る冷たい風が一筋吹き抜けた。思い返せばこの一年、今までにないいろいろなことがあった。家庭教師に会い、喧嘩が減り、銃で撃たれ、そして恋をした。
時系列的には7あたり。
教師パロです。
静雄→体育教師
臨也→養護教諭
というなんとも微妙な設定。
体育科教員がジャージ姿でいるのは別段不自然なことではない。各々有名なスポーツブランドのポリエステル製のジャージを好きなように着くずしている。
今年赴任してきたばかりの新米教師平和島静雄も例外でなく、袖と、ズボンの脇に二本の白ラインの入った、ギリシアの某島で見つかった女神の像と同じ社名のロゴの入った黒いものを、袖を捲って着ていた。自前の長身とモデル並のスタイルでジャージさえも見事に着こなすが、本人は至って無自覚無頓着この上なかった。金髪なのは先生としてどうなのかと思われるが、一度校長先生に注意され地毛の色にに戻したことはあった。しかし生徒から思いがけない文句を言われ、校長からはなぜか了承が出て、結局金髪に戻したのであった。もっとも、彼は裏で糸を引く人物を確実に察知していた。
本日は全校生徒が楽しみにしていた球技大会の日である。優勝すれば校内施設の利用優先権がかかっているだけに皆燃えている。たった一ヶ月の権利だが、無いに越したことはない。
静雄の担当は男子バスケットボールだった。しかし次の試合までに少し空き時間ができ、校門前まで足を運んだのがつい五分前。
「やぁ、平和島先生」
今では校内で禁止されてしまった煙草を、門の外でフェンスを背もたれにして立ち紫煙をふかせていると、生徒にとって魅力的な、静雄にとって苛立ちしか与えない声が背中にかけられた。振り返って返事をするのも面倒に思い、静雄は無視した。
「今日もいい天気ですねー」
空は快晴。雲ひとつない。洗濯日和の確かにいい天気だ。「テメェがいなきゃな折原先生」
静雄は煙草を口から離し、了承してもいないのに横に立った白衣の教員折原臨也を睨んだ。
「ひどいなぁ、俺結構愛されてるのに」
確かに臨也の容姿は静雄に劣らない。むしろ勝っているのかもしれない世間的には。だが静雄にとっては言語道断。なぜこのような人間が愛されるのかわからないどころか理解不能である。静雄は再び煙草を口にくわえようとし、同時にそれを奪われた。
「体育教員なのに煙草はだめだよー、シズちゃん」
最後の呼び方に、静雄のこめかみに青筋が立った。実は静雄は、臨也とは同輩の仲であった。お世辞にも仲が良いとは到底言えない。
「テメェ・・・大体、今日は球技大会だろ」
職務怠慢か。そう言ってやれば否定の言葉が返ってきた。
「俺はまじめに仕事しようとしたよ?でも俺がいると怪我人が保健室に入れないって新羅に言われてね」
本当、馬鹿だよねぇ。
臨也は侮蔑の色をたたえた笑いをこぼした。確かに、常時の保健室は常に女子生徒であふれている。まぁ、大半が臨也との会話目当てなのだが。時折正しい怪我人が来くるのだが、女子たちに冷たい目で見られるという何とも非道な仕打ちを受ける羽目になるのが日常である。
ふと、臨也が話題を切り換えた。表情はいつもの食えない微笑に変わっている。
「そういえば、今日最後のイベントで生徒バーサス教員のバスケットガチバトルあったよね」
「あー、そんなもんもあったな」
めんどくせぇ・・・。静雄はポケットに手を突っ込み溜息をついた。スポーツは嫌いではないのだが、如何せん人並み以上の力を持ち合わせているため、ゴールを壊すことなど朝飯前だ。なのに選手に推薦されてしまったのだ。
「応援してるよ」
「・・・は?!」
臨也の言葉に、静雄は激しく動揺した。
「だって、教員が負けたら今度の試験を簡単にしなきゃいけないんだよ、まぁこれはどうでもいいけど、生徒が選んだ先生が一カ月担任やらなきゃいけないんだよ」
俺とって食われちゃうかも。最近の高校生すすんでるからねぇ。
臨也はわざとらしい演技で身を震わす。それを静雄は、動揺が収まり明らかに引いた目で見ていた。
「新羅より、お前のほうが変態だな」
「ちなみに負けたら切り刻むからね、シズちゃん」
臨也はそういうと、まるで置き土産をするかのように、静雄の手の甲にズボンの上からナイフを刺した。当然血は出るし、痛い。
「・・・・臨也アアァァァっ!!」
「あっはは!そうこなくっちゃ!」
白衣を翻し走る臨也の後ろを、静雄もまた全速力で追いかけた。
臨也が池袋にいる。妹たちと一緒にいる。
臨也:普通に双子のお兄ちゃんやってる。
静雄:臨也の事そんなに嫌いじゃない。何か異常に普通。
舞流:主に料理担当。性格はほぼ一緒。
九瑠璃:主に洗濯掃除担当。同上。(字合ってるかな?)
今日も仕事帰り、臨也は近くのスーパーマーケットに来ていた。
かごを乗せたカートを引き、生鮮食品売り場から順に店内を回っていく。片手には達筆とは言えないが読める字で書かれた買い物メモを握っていた。先日高校生になった妹、舞流の手書きである・・・と言うのは嘘で、舞流が言ったものを書きとった臨也の手によるメモである。朝食の時間に広告とにらめっこしながら呟いていた独り言を書きとるのが最早臨也の朝の習慣となりかけていた。自分の決めた順路に沿ってスーパー内を歩いている途中、ちょっとした出来心で新商品のおいしそうなチョコレート菓子を二個かごに放り込んだ。その行為をを顧みて、決して妹のためではないという嘘を自分に言い聞かせた。
(で。ええと、人参玉葱キャベツ大根トマト胡瓜白菜。それから・・・)
臨也はカートに乗せたかごの中身を一つ一つ、メモと照らし合わせていった。かごの中の状況も手慣れたもので、見やすく且つ無駄なくきれいに入れられていた。
(食パンにリンゴに苺・・・あぁ、あとヨーグルトか)
臨也は乳製品が並べられている方へと向かった。
しかし、そこであまり、いやかなり遭いたくない人物と遭遇してしまった。背中を向けていたのでそのまま気づいてくれるなよそのまま通り過ぎてくれよと臨也は願った。が、逆にその強い視線を感じ取ったのかその人物は後ろを振り返って臨也とばっちり目を合わせた。
「・・・よぉ、ノミ蟲」
「や、やぁ、・・・シズちゃん」
長身痩躯で金髪の、バーで働く人が着る制服を着た平和島静雄その人物がいた以上そのままその場を過ぎ去りたかったが、生憎彼の前には臨也の目的のものが陳列されていた。
静雄はそのまま棚に顔を向け、牛乳に手を伸ばした。頬に痛々しくもガーゼが張り付けてあり、まくりあげた袖から伸びる腕には丁寧に包帯が巻いてあった。どうやら新羅の所からの帰りらしい、臨也は思った。
「奇遇だね、こんなところで会うなんて」
牛乳の賞味期限を確認しながら、静雄は言葉を返した。「てめぇは何でここにいる」
「見ての通り、買い物さ」
臨也はいつもの調子で両手を広げて見せた。しかしカートを片手に、背景がスーパーマーケット内ではどんな恰好をしても格好が悪い
「・・・似合わねー・・・」
静雄は、臨也の押しているカートに乗っているかごの中身を、今朝の広告に載っていた特売品やら新商品などが整頓されて入っている状況を見て更に一言。
「お前、」
主婦みてーだな
その一言に、臨也は一瞬固まり、そして深いため息をついた。
「シズちゃん、とりあえず君の脳内がかわいそうなのはよーく解った」
「んだとコラ」
「というか、俺作ってないし」
その言葉に、静雄は少し驚いた。
「そうなのか」
てっきり一人暮らしをしているものだと、静雄は思っていた。
「じゃあなんでそんなに買ってんだよ」
「頼まれたんだよ、マイルに」
「あぁ」
静雄の頭に思い浮かんだのは、伊達眼鏡をかけた見かけ文学少女の快活な少女が思い浮かんだ。しかし彼女が料理を作れるとは到底思えなかった。
「マイルが飯作ってんのか?」
「クルリは洗濯とか掃除とか」
あ、マイル料理上手いよ。今度頼んでみれば?きっと喜んで作るだろうね。
「そういえばお前がコンビニとかで買ってるの見たことないな」
「買い弁じゃ栄養がって」
「妹に栄養管理されてんのか」
「そこ煩い」
「テメーは何もしてねーのか、お兄ちゃん?」
「二人の手伝い位はするよ。金銭面は俺担当」
「一番楽そうだな」
「誰も文句言わないよ」
乳製品売場の前で顔の良い男が二人肩を並べて物色もとい商品の吟味をしている奇妙な光景の間に割って入った携帯電話の音があった。それは臨也のものであり、着信の名前を見てとるかとらないか一瞬迷ったが取らないと後がうるさいと思い通話ボタンを押した。
「はい」
『あ、イザ兄?』
臨也はすぐさま携帯電話を耳から離した。そして音量を最も小さくして再び耳に近づけた。電話の相手は舞流だった。「用件は?」
『うん、あのね、ヨーグルトはブル○リアよろしく!牧○の朝とか○ノンとかはダメだからね!』
「そういうことはちゃんと言葉に出すか紙に書けって言ってるだろ」
『できれば朝○とかでもいいんだけど、』
「ああそう、じゃあね」
そこで、臨也は携帯電話を切った。そうでもしないと延々とヨーグルトの銘柄からさらに話が発展して結局ぐだぐだと通話料金が重ねられるだけの会話になっていくことを経験的に知っていた。
「何だ」
「マイル。ヨーグルトの指定」
「これか?」
そう言って静雄が臨也の前に出したのは、まさに舞流が欲しいと言っていた銘柄であった。
「よくわかったね」
「いや、聞こえた」
「・・・そう」
なんとなく、臨也は恥ずかしい気分になった。
文字通り、箱入りの静雄さんが臨也さんのもとに送られてきた。
その日、折原臨也は一人で仕事をしていた。朝からコンピューターの前に座り、淡々とキーを叩いていた。室内は静かそのもので、仕事もはかどっていた。
ふと、そこにインターホンの音が鳴り響いた。臨也は手を止めた。今日この時間に来る予定の関係者はいない。かといって誰かが訪ねてくるような時間でもない。椅子から立ち上がり、臨也は内蔵カメラからドアの外の様子をうかがった。しかし玄関口には誰もいなかった。悪戯にしてもこんなところまで来てする必要性はない。何せここは最上階に近い。そう思い、臨也はとりあえず玄関の扉を開けた。
「やあ折原君」
青相手すぐにドアを閉めようとした。しかし足が挟まれて完全に扉をしめ切ることが出来なかった。不用意に開けるんじゃなかった。臨也は一つ溜息をついて、扉を引く手から力を抜いた。そうすればくぐもった声の悲鳴が聞こえた。それもそうだ。足は扉を開けようと外に力を入れていた。そのつり合いがなくなれば当然勢い良く開く。ちょっとした臨也の仕返しだった。
見れば、そこいたのは見間違えようのない、ガスマスクに白衣を着たなんとも奇妙な男であった。彼ははかなり大きな段ボールを横に立っていた。
臨也は肩を竦めた。
「何の用ですか、森厳さん」
「君にプレゼントだ」
そう言って森厳が指したのは、横にあった大きな段ボール箱であった。「この箱が、ですか?」
一見すると何の変哲もないただの段ボール箱である。特に傷も汚れもない。郵送などの際によく使われる扱いを示したシールが上部に貼ってあった。どうやら中身は「割れもの」で「なまもの」だそうだ。臨也は何か引っかかった。この箱の大きさでなまものと言われると、かなり限られてくる。箱の大きさはそれこそ、大の大人が一人易々と収まりそうなサイズである。
臨也の背中を嫌な汗が伝った。森厳の方を見ると、微々たるものだが体が揺れている。それも楽しそうに。脳が恐怖から全力で受け取り拒否を命じている一方、心は面白さゆえに受け取り承諾を訴えていた。
「まさかとは思いますが、中身はもしかして」
「煮るなり焼くなり好きにしたまえ。あ、でも殺してはいかんからな」
そう言い残して森厳はそそくさと早足でエレベーターに乗り、下へと去って行ってしまった。断るタイミングを逃した臨也は一度、深く溜息を吐いて携帯電話を手に取った。電話を掛けると、幸運にも今最も頼りにしたい人物がちゃんと出てくれた。
「あ、運び屋?ちょっとお願いしたいことがあるから今すぐ新宿の事務所に来てくれない?本当、至急よろしく」
数十分後、身支度に少々時間を取ったが、運び屋ことセルティ・ストゥルルソンは新宿の臨也の事務所に姿を現した。彼女がそこで見たものは世にも奇妙などころの話ではなく、狩沢がこの場に居合わせたら文字通り言葉にならない叫びをあげていただろう光景であった。
あの平和島静雄が、折原臨也に抱きついていた。
「・・・やぁ、運び屋」
「よぉ、セルティ」
二人はセルティを見上げ、視線の合ったセルティはしばし沈黙した。やがてPDAを取り出し、それを臨也に向けた。
『一体何があったんだ?』
「冷静な対応ありがとう。何があったかどうかは言葉で説明するより示した方が早いよね」
そう言うと、臨也は静雄を自分のうえから退かせて上体を起こした。そして静雄に向かって言った。
「シズちゃん俺のこと好き?」
『何を聞いているんだ臨也?お前は静雄のこと嫌いだろう』
セルティのこの文面は最早驚きによる動揺を通り越して変に冷静になってしまっているだけのことであった。しかしその冷静さをもぶち壊す静雄の一言が待ち受けていた。
「あぁ、大好きだ臨也」
『?!?!?!?!?!?』
そう言って微笑んだ静雄を見て、セルティは素直な感想をPDAに書きなぐった。そしてそれを臨也の顔に押し付けた。
「多分君が言いたいのは『これは一体どういうことだ臨也!説明しろ!』あたりかなぁ。俺だって知りたいよ。開けたらもうこの状態だったんだからさ」
数十分前。
セルティに連絡を取った後、臨也は悩みに悩んだ挙句、とりあえず箱を家の中に入れることにした。重かったので半ば引きずる形になっていたが、何とかリビングまで運び、そしてナイフでその封を開けた。その中身を見て、臨也は自分の予想が当たったことを呪った。
確かに箱の中には平和島静雄が入っていた。とりあえず触って見れば温かく、死体でないことが確認できた。特製の薬品か何かが盛られているのだろう。かなり深い眠りに就かされているようで、試しに頬を抓っても何の反応も示さなかった。着ている服はいつものバーテンダーの服だった。靴もちゃんと履いている。昨日どこかで拉致られたのかと臨也は思った。しかし外傷も内傷も見当たらない。超強力麻酔でも打ち込んだか。それもそれで危険なことだがそれでも死なない静雄の方がもっと危険である。
さて開けたは良いがどうしようか。そう考えていたところ、ふと箱の中に入っている紙を見つけた。
「えーっと、平和島静雄の目を覚まさすには彼のフルネームを彼が聞こえる程度の声量で持って言いなさい・・・って」
今俺言っちゃったよね。「平和島静雄」って。
恐る恐る箱の方を振り返ると、がさりと音が鳴った。そして先ほどまでまったく無反応だったはずの静雄が段ボールから出てきた。
「・・・・・・」
まだ意識がはっきりしないのか、静雄は立ち上がったまま動かなかった。そして頭が、視線が臨也の方を向いた。向いてしまった。
「や、やぁ・・・シズちゃん」
「・・・ざ、や」
臨也は近くにあったナイフを手に取り、携帯をジーンズのポケットに入れ、いつでも逃げられる態勢をとった。
「目覚めはどうだい?」
「・・・・・・」
「まさかシズちゃんが箱詰めされてくるなんて思ってもみなかったよ」
「・・・・・・」
「ネブラの奴らもなかなか有能な奴らじゃないか。君みたいな化け物を捕まえちゃったんだから」
「・・・・・・」
「でも何でそれを俺のところに送ってくるかなー」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
(何この無言!)
臨也は全く反応を返さない静雄に対し肩を落とした。こんな逃げる態勢を取っている自分が何だか馬鹿馬鹿しく思えてきた。
ところがそこで突然静雄が動いた。
「ッ?!」
しまったと思った時には時すでに遅し。静雄は臨也の目の前まで来ていた。逃げる道を捨て、右手に持っていたナイフの刃を出し、それを突き立てようと手を前に出したが。
「臨也!」
「・・・・・・はっ?」
臨也はそのまま後ろへと倒れた。フローリングの床に頭を強く打ちつけたが、そんな痛みよりも、静雄の行動は彼を驚かせていた。
何で俺はシズちゃんに抱きしめられているのだろう?
あまりの驚きに身体が動かなかった。そのまま馬鹿力で圧死させられるのかと思いきや、全くそういった力が入っていない。ただ人を抱きしめる時位の力で臨也は静雄に捕まえられていた。
「ちょっとシズちゃん?本ッ当どうしたの?」
もう驚きよりもある種の恐怖しか臨也の中にはなかった。静雄の頭を叩いて退くように指示するが、顔を挙げた静雄の表情を見て、臨也は更に恐怖を煽られる羽目になった。
「臨也、大好きだ」
そのあまりにいつもと違いすぎた表情に臨也は赤面した。
その後何度か糺そうと試みるもことごとく失敗し、そこにセルティがやってきた。
場所はリビングへと移り、三人はソファに座っていた。もちろん、臨也の隣に静雄は座っていた。
「本当は家に返してもらおうと思っていたけど、とりあえず新羅の所に連れてってくれないかな?」
「俺は別にどこも悪くない」
会話の限り、静雄は別に記憶がどうこうなっているわけではないようだとセルティは思った。
「行ってくれないと俺が困るの」
そう臨也が言った途端、静雄はあからさまに傷ついた表情になった。
「臨也は俺と一緒にいるのが嫌なのか?」
普通の女性ならば、確実に落ちるだろう。しかし残念なことに相手は臨也である。
「嫌だとかそういう問題じゃなくて。この状況は俺にとっても運び屋にとってもおかしな状況なの。シズちゃんが俺のこと好きだなんて正直あり得ない話なんだって」
「あり得なくなんかねぇ!」
「あり得ないってば!」
『・・・・・・』
最早何をどういっていいか分からず、セルティはとりあえず一言言った。
『臨也も一緒に来ればいいじゃないか』
「は?」
『それで済む話だろう?』
そう静雄に向けると。
「あぁ」
先ほどまでとは打って変わり、静雄は途端に明るい表情になった。
『じゃあ、決定だ』
「行くぞ、臨也」
「え?ちょ、何で俺まで」
臨也は静雄に首根っこを掴まれ、そのままセルティと共に玄関へと向かうこととなった。
「そんな気むずかしい顔しちゃ、いざやくんにきらわれちゃうよ?」
「うるせぇよ」
便宜上、兄にあたるサイケが俺の顔を心配そうに見てきた。別に俺は「臨也」とかいう奴、いやここはマスターとでも言っておいた方がいいか、に嫌われようが好かれようがどうだっていい。むしろ嫌われるのが普通だと思う。マスターは怒りとか悲しみとか愛おしさとかなんかやたら複雑な顔をして俺を見る。兄に聞けば、俺はどうやら平和島静雄というマスターが特殊な思いを寄せている人間に似ているらしい。ついでに言えばこの兄がやったら懐いている寡黙な津軽とかいう奴にも似ているらしい。そんなにこの顔は人気なのか。だらりとソファに寝転んだ状態で自分の色のない髪を引っ張ってみた。静雄も津軽もきれいな金色をしていた。目も、変なピンク色じゃなくて茶色とか、落ち着いた色だった。といってもまだ会ったことはない。マスターや兄のデータで見た限りの絵しかない。会ってみたいとは正直思う。
そうしていると、兄が上にのっかかってきた。決して軽くはない。
「髪なんかひっぱってなにしてるの?」
「考え事」
すると、突然小さなウィンドウが開いた。
『やぁ、相変わらず仲良いね』
マスターの声だった。
「別に」
そう答えた後、兄が俺の腹に手をついて上体を起こしてウィンドウに向かって喋った。結構苦しい。
「いざやくんおかえり!」
『ただいま、サイケ』
そういってマスターは人のよさそうな笑顔を浮かべた。そして視線が俺へと移った。
『そこでの生活にはもう慣れた?』
そこでの、というのはこの部屋のことを指しているのは明らかだった。俺たちは自分と同じような白とピンクの部屋にいる。ある程度落ち着きはするが、外から見たらまぁ異様な部屋だろうな。
「そこそこ」
『そう、ならいいや』
当たり障りのない返事を返せば、同様の返事が返ってきた。次いで視線は兄の方へ。
『そういえばサイケ、彼の名前はもう決めた?』
そう、俺は名前がまだない。数字以外兄と同じ商品名だから何かしらの呼称が必要だった。普通はマスターが考えるべきところだと思ったがその役はサイケが買って出ていた。というのが昨日までの話。マスターの言葉に兄は大きく楽しそうにうなずいた。
「うん!“でりっく”って呼ぶことにした!」
「なんだその中途半端な欧米人風な名前は」
聞こえてきた変な名前に俺は兄が上にいるにもかかわらず起き上がった。案の定兄は床に転がり落ちた。
『…はははッ!サイケらしいね』
「そこも納得するな」
ウィンドウに向かって俺は大きな声で言ったが、嫌味を含んだ笑みを残してそれは閉じられてしまった。こちらからは開けないのでどうしようもなくなった。
「…いたい」
腰をしたたかに床に打ち付けたようで、さすりながら、涙ぐみ、俺の方をきっと睨んできた。
「でりっくのいじわる!」
そう言い残して、兄は部屋を出て行った。行き先はおそらく、津軽のところだろう。追いかけることを考えても俺にそいつのところに飛ぶためのデータはないので不可能。
ところが。
『あれ?サイケまた津軽のところに行ったの?』
俺の真横でマスターのウィンドウが開いた。
『ちょっと連れ戻してきてくれない?IPアドレスはこれだから』
そのすぐ後に有効な番号が送られてきて、ウィンドウは閉じられた。言うだけ言って急に消えるなよ。俺外出るの初めてなのに。
しかし言うことには逆らえない。俺は愛用の機器を鞄のように片手に持ち、その番号先に飛んでみた。
今度は医者です。
精神科臨也と整形外科医静雄。
なぜ整形外科医かは、いろいろ考えた結果。結構骨折ってたしね、実際。
そこで、整形外科医の平和島静雄は一服ついていた。医者は常にストレスと体力との勝負だった。喫煙者にとって世知辛い世の中になったもので、この病院も近いうちに禁煙を徹底すると聞いた。こうして煙草を吸えるのもあとどれくらいか。独立しようかなんて思うが、最初の設備投資費が馬鹿にならない。またここで親しくなった患者たちと別れるのも惜しい。
静雄は肩を回した。すると固まっていたようでぱきりと音が鳴った。ついでに首も回し、背筋を伸ばした。
すると目の端に影が入った。見れば、ガラス戸の先で手を振っている同僚がいた。
「やぁ、シズちゃん」
精神科医の折原臨也だった。身なりに気を配る彼だが、今日は夜勤明けなのか、その表情は声の割に暗かった。目の下にはクマがうっすらと浮き、疲れの色がはっきりと見えた。
静雄は紫煙を吐き出して言った。
「医者の不養生になる前に帰れノミ蟲」
「あとで仮眠をとるよ」
入ってくる気はないようで、臨也はガラス戸の前に立ったまま喋った。少し音が曇り聞き取りにくかった。
そして臨也はそのままガラス戸を背に床に座った。
「懐かしいね、ノミ蟲なんてさ」
「てめぇこそまだそれを呼ぶか」
静雄は臨也の背を睨んだ。
「こっち来てもう五年か。意外と短かったね」
「ここで会うとは思ってもみなかったがな」
「それ同感」
臨也はからからと笑った。
静雄が臨也とこの病院で再会したのは、今から五年前の話であった。
* * *
新しい精神科の先生が来る。
そんな噂が院内を流れた。噂には尾鰭がつくもので、静雄の耳に入ったときには、本当に医者かと思う状態にまでなっていた。
ある日、静雄が休憩がてら院内を歩いていた時、大きめのトランク一つと、脇にノートパソコンを抱えた男が入ってきた。そして何のためかサングラスをかけていた。院内中の外来の好奇の視線を集めていた。
――― どこのセレブ気取りだ。
明らかに診察目的ではなさそうだった。あぁ、こいつが今度の噂の精神科医か。そんなことを思いながら静雄はその背を見送った。なんとなくその背格好に見覚えがあったが、誰とまでは行きつかなかった。
彼はそのまま真っ直ぐカウンターに向かい、受付の医療事務員に言った。
「岸谷医院長はいる?繋いでほしいんだけど」
思わず静雄は足を止めて振り返った。その声は聞き紛うことがない。
「精神科の折原臨也って伝えてくれればいいよ」
そう言いながら男はサングラスを取ってワイシャツの胸ポケットにしまった。静雄の記憶より幾分か大人びた顔がそこにあった。
診察時間中だというのに、彼の顔を見た看護師たちは立ち止まり、ひそひそとささやき合った。そして好奇の視線はやがて興味の視線に変化した。
声をかけるのが躊躇われたのでそのまま診察室に戻ろうとしたが、逆に呼び止められてしまった。
「あれ、シズちゃん?」
悪くも懐かしい呼び名で。静雄はゆっくりと振り返った。そして速足に臨也の方へ歩いた。
「やっぱり。金髪の医者なんて君ぐらいだろうと思っていたら本当だったみたいだね。いやぁ、何年ぶりだろう。大学違ったから……九年ぶりぐっ!」
久しぶりに会ったことで興奮しているのか早口でしゃべる臨也の額を、静雄は容赦して弾いた。太めのゴムバンドを当てたかのような音が鳴り響いた。
「それを言うな」
臨也は仰け反った首を元に戻し、額と首を押さえてふらりとよろめいた。
「バカ力も相変わらずか……ってて」
額も痛いが、勢いを殺せなかった首も痛んだ。
「折原さん、岸谷医院長からご連絡です」
「はい」
臨也は首をさすりながら、静雄を見た。
「じゃ、またあとで」
そしてトランクを持ちノートパソコンを抱え、先を行く事務員の後を追っていった。
臨也は瞬く間に馴染んでいった。高校の時よりますます社交性に磨きがかかったのではいかと静雄は思った。
「そりゃあ、精神科は言葉が命だから」
そう臨也は言った。信頼ではない。静雄は寒さを感じた。
また偶然か必然か、外科医の新羅、内科医の門田を含め、高校時代の面子が揃った。とはいっても毎日会うわけでもない。廊下ですれ違った時に立ち話をするくらいで基本会う事はめったにない。特に外科と内科は忙しい。新羅に至ってはいつもどこかに出張に行ってしまっている父親の代理で院長も兼ねているときがある。
* * *
「まぁ、付き合いは……八年か」
「高校含めんのかよ」
まさか高校までが含まれるとは思ってもいなかった。何せ毎日が戦争のような喧嘩続きであったのだから。
それが十四年でここまで穏やかになったのは多少なりとも距離を測れるようになったからなのかも知れない。臨也も人を挑発するようなことをしなくなったし、静雄も怒りの消化方法を学んだ。もっともこの職に就いたというものも大きかったのかもしれない。
ふと、静雄は今まで聞いていなかったことを思い出した。
「そういや、最初の赴任先ってどこだったんだよ」
自分の年齢から五年を引いても、卒業からは三年のブランクがあった。その間臨也はどこに勤務していたのか、気になった。
だが返事はなかった。不審に思い煙草を消してガラス戸を引くと、壁に背を預けていた臨也はそのまま倒れてきた。
「臨也?」
「………」
無言で、目を閉じて、規則正しい呼吸を繰り返していた。
「……おい、寝るな」
傍にしゃがみ頬を軽くはたくが反応はない。頬を抓ってもまた然り。思わずその頬の伸びた顔に静雄の方が笑ってしまった。それでも起きないほど、臨也は寝入ってしまっていた。
このまま放っておくには外は少々寒かった。白衣を脱いでその上に被せると、仕方なく、静雄は臨也を抱え上げた。
いくら開院前とはいえ、職員は往来している。静雄はその中を、なるべく人目を忍んで案内板に従って精神科に向かった。途中すれ違った精神科医に「急患ですか?」と慌てた様子で聞かれたときは焦った。「いや、夜勤明けで寝ちまった」と答えると、彼は臨也の顔を見て納得したように頷いた。
「最近寝つきの悪い方がいらっしゃったみたいで、その相手をしていたようですよ」
しかも指名ときたらしい。それは睡眠不足にもなる。ただでさえ大変な職場なのだから。
朝早くから精神科に掛かりに来る人は少ない。おかげでほとんど人に会うことなく臨也の部屋まで辿り着いた。足を使って引き戸を開け、中に入るなり静雄は臨也を仮眠用のベッドの上に寝かせた。肩を軽く回し、そしてかけていた自分の白衣を取ろうとしたところ、引っ張られた。
「…おい臨也君よ、離せ」
何度か引っ張るが、力は緩まるどころか逆に強くなった。力任せに引っ張ることもできたが、その引く強さのせいで臨也自身がベッドから落ちるのも明らかだった。頭でも強打されては困る。自分じゃなくて病院が。営業に支障が出る。そう自分に言うと、仕方なく、白衣はスペアを使うことに決めた。
「洗濯してアイロン掛けて返せよ」
静雄はデスクにあったボールペンを手に取り、付箋に同じ言葉を書きつけ、内線電話に張り付け、部屋を出た。
* * *
呼び出しのコール音で臨也は目を覚ました。
「はい、精神科の折原です」
そう寝ぼけた声で言うと、急患の連絡だった。
「分かりました、……はい、今は落ち着いていると。すぐ向かいます」
臨也は受話器を置いた。すると電話には「洗ってアイロン掛けて返せ」と辛うじて読める汚い字の付箋が貼られていた。なんだこれはと思いつつ仮眠用のベッドから降りようとしたところでふと思った。そういえばなぜ自分は仮眠用のベッドで寝ているのか。記憶は喫煙所で途切れていた。そして自分にかかっている薄手の衾以外の、白衣。よく見ればそれは先ほどまで掴んでいたものではないだろうか。明らかに皺がその形で残ってしまっている。首のタグを見れば律儀にも「平和島」と油性ペンで書いたらしい滲んだ文字があった。
「……ははは」
思わず乾いた笑いが出た。そして臨也は頭を抱えた。
「最悪……」
他人様の、しかも静雄の白衣を抱いたまま寝るなどまったくもって信じがたいことだった。子どもか自分は。臨也は自分を嗤った。しかしそのまま悩んでいることはできない。臨也はのろのろと立ち上がると、アンダーとワイシャツを着替え、新しい白衣を着なおして部屋を出た。
大丈夫、あれもそれもこれも何もしてないから。
空気だけR15で。
俺は雑誌を開きながらソファの上に寝転んでいた。新しいヘッドフォンや再生機器、スピーカーに新譜など、魅力的なものが所狭しと並んでいた。別段欲しいとかそういうわけではないが、それらは見ているだけで楽しいものだった。
しかしそんな幸せな一時は打ち破られた。
「でりっくー!!」
「ぐ……」
ネットサーフィンから帰ってきた兄が俺の背中の上に落ちてきた。しかもちょうど腹の上に乗ってきたから思わず呻いた。
「…退け」
「今日ね今日ね、おもしろいモノ見つけたんだ!」
そういう兄の顔を見れば、すばらしく企みを含んだ黒い笑顔を浮かべていた。要は口は笑っているが目が笑っていないということだ。さて急いで避難しなければきっと俺は酷い目に遭うだろう、いや遭わされる。しかし体はすぐに動かなかった。
俺は見事に兄に拘束されていた。力では俺の方が断然上なのだが、力任せと言うのは兄に通用しない。俺にとって用途の不明すぎる「支配コード」なるものをマスターが渡しているせいだ。これが使われたときは強制的に俺は兄に従うしかないのだ。
そして今、これが使われている。
「ぜひともこれをでりっくにためしたくてねー」
そう言って兄は何の断りもなく耳から伸ばしたプログラム転送用接続端子を俺に繋いできた。
「おい、何がしたいんだ」
「すぐにわかるよ~」
「っう!」
瞬間、視界にノイズが走った。パチパチとしたスパーク音が耳元で鳴り、俺はすぐに接続を切ろうと手を左耳に伸ばした。けどその手は兄に掴まれた。
「だーめ」
「これ、何」
流れ込んできたデータは、意思とは無関係に次々に読み込まれていく。文字の羅列はめちゃくちゃで、とても読めたものじゃない。しかもところどころコードに矛盾がありさらに拗れていく。って、これウィルスじゃないのか。
「俺をジャンクにする気か!」
「だいじょうぶ、こわれたりはしないよ。でりっくにもちゃんとセキュリティ入ってるから」
でも、ちょっと辛いかもね~。
そういう兄の声音は楽しそうだった。何か裏がある。絶対、ある。
「でね、でりっくがお兄ちゃん、って呼んでくれたらやめてあげるよ」
「ッ……」
――― そういうことかよこのバカ兄貴!
そう叫んでやりたいと思うが、どうにかこのプログラムを強制排除もしくは削除、終了できないかとフルで動くセキュリティのせいで俺は形声分野が機能しなくなっていた。
「…ぃ…ぁ」
慌てて喉に手を当てるが、それで何か変わるわけじゃない。空咳をするが何も変わらない。
「 」
そしてその機能障害は聴覚分野にまで響いてきた。プログラムは自動再生され俺を侵食しようとするが、そのそばからセキュリティが排除、削除、終了をしていく。視覚分野もやられ目まぐるしく画面が切り替わり、さらにそんな多重の高速処理のせいで体温が上昇した。
その光景から目を反らしたくて目を閉じて身を捩るが、内でのことだから消えるはずがなかった。
「……ッ」
――― 暑い、苦しい、痛い、熱い…
すべてが混ざって、もはや区別がつかなくなっていた。何かを掴みたくて手を伸ばすが、何も掴めない。次第に平衡感覚も狂い始め、自分がどこに向けて手を伸ばしているかもわからなくなった。
ふと、今まで空を切っていた手が何かを掴んだ。僅かな思考分野でそれが兄の腕だと気付くのには数秒かかった。とにかく、早くこの拷問のような状況から脱却したかった。
すると、ウィルスの侵食の速度に変化が生じた。遅くなった。その勢いが、最大の70、60、50パーセントと徐々に落ちていった。何が起きたのかと薄く目を開けると、焦点を失った視界で兄が何やら焦った様子で口を動かしていた。どうやら兄が外部干渉をかけてきているのだと、判断した。
「… 、 …」
「 」
その瞬間、プログラムの動作が停止した。視覚聴覚発声それぞれの機能は瞬時に復元され、セキュリティも奥に引っ込み、体の中は静かになった。
「「……」」
暫くの沈黙が流れた。
「満足、かよ、…バカ兄が……」
俺は動けなかった。かなり体力を消費したようで、活動限界域ぎりぎりまでに落ちていた。念のためデータバンクの被害状況を確認したところ、ウィルスデータはきれいさっぱり跡形もなく消え去り、被害を受けたのは家事データの一部とマスターのデータの複製位だった。どちらも元があるから復元は可能だった。
そして安心を得たところで急に眠気が襲い、俺は逆らうことなく目を閉じた。
ぱたりと眠ってしまったデリックを見て、サイケは急な罪悪感に襲われた。
「…ごめん、ね」
そう呟きながら、白い髪を梳いた。まだ熱は抜けておらず、デリックの身体は子供体温のサイケより温かかった。
予想以上に、ウィルスの侵食が早かった。多分今まで一度もその類に出会ったことがなかったゆえにセキュリティの自動防御機能がうまく動かなかったのだろう。そこまで計算しておくべきだったとサイケは反省した。
「でも、あれは反則だよ…」
目尻に涙を浮かべ、腕を掴んで、虚ろになりかけた目で舌足らずに掠れた声で自分を呼んだデリックは、想像以上に衝撃的なものだった。
『…ッにい、ちゃ……』
反芻しただけで口元が緩みかけ、サイケは口元に手を当てた。そしてデリックの手を取って、ソファに寄りかかる体制になって目を閉じた。
若干暗めの話。
――― あー、もう、最悪だ
折原臨也は無残にも破壊され、鉄筋が露見してしまっているビルの、運良く残っていた基礎部分の陰に身を滑り込ませた。耳を澄まさなくても聞こえてくるのは乾いた破裂音と断続的な射撃音そして派手な爆発音。止むことのない砂煙と火薬と、死体の臭い。
彼が今いるのは、紛うことない、戦場だった。
もともと、臨也は軍の諜報部隊出身であった。任務遂行率は九割を超え、獲得してくる情報も有益で、軍部内では絶大な信頼を得ていた。社交性にも優れ、いずれは上層部に上り詰め軍を動かしていくだろうと思われていた。しかし八方美人な立ち振る舞いが不興を買い、こうして戦地の最前線へ赴く実戦部隊へと転属させられた。それ自体に関しては何も思っていなかった。実践は士官学校時代から得意分野であったし、生死のやり取りに対して平均少し下の恐怖がある程度だ。そんな彼が何より苛立って仕方がなかったことはある一点のみであった。
ビルの陰から敵兵の様子を窺っていたところ、不意に背後から肩を叩かれた。反射的にナイフを振り上げたのだが、黒い手袋一枚付けた手で刃先を掴まれ、そこまでだった。
「生きてたか」
その声を聴いて、臨也はナイフに込めていた力をふっと抜いた。同時に手も離され、ナイフを袖口に仕舞った。
平和島静雄であった。服はところどころ裂け、砂や泥による汚れはあるが、致命傷は負っていなかった。
「何だ、シズちゃんか」
臨也はその場に腰を下ろし、長い息を吐いた。臨也の苛立って仕方のない点である。
ことあるごとに、静雄と同じ戦場に駆り出されるのである。士官時代からの仇敵であることは上層部も知っているはずの事実である。なのに、こうして同じ場所で戦い、互いを助け合う状況にある。そしてそんな状況に、臨也は諦めという名の慣れを感じ始めていた。
最初の内は実際の敵よりもお互いを敵とみなして殺しあった。先に変化が訪れたのは静雄の方だった。臨也を見ては何度も青筋を立てていたが、次第にその矛先を無理矢理敵に向けていった。その変化に気付かない臨也ではなかったので、苛立ちを感じつつも敵を倒すことに意識を向けるようになっていた。
「戦況は」
「まるで駄目だね」
静雄の問いに対し、嘲笑し吐き捨てるように答えた。
「陣営の配置は最悪。人員は不足。連携も不可能。物資の調達も間に合わなかった。途中で爆破されたよ。俺は他の奴らはさっさと帰しちゃった」
一緒に動いてても邪魔なだけだから。そう付け加えた。
「そういう君はどうなんだい?」
「……とりあえず隊を二、三ぶっ壊して、戦車もいくつか壊してきた」
「さすが」
しかしそう言った静雄の表情は暗かった。
静雄が所属する特殊戦闘部隊に、彼以外の兵士はいない。そこはいわば軍内で人外扱いされた強い兵士たちの行き先であった。静雄は軍に入ってすぐ、ここに配属された。階級はない。寂しい隊番号が与えられるだけである。
――― まぁ、この作戦は敵の殲滅じゃないからね。
臨也は盗聴器を仕掛けた戦略会議の様子を思い出した。
* * *
野戦用に張られた薄暗いテントの中、作戦隊長の准将とその取り巻きたちは話し合っていた。そこに緊張感はなく、むしろ変に和やかな雰囲気だった。元諜報部隊の臨也が聞いているとも知らず、彼らは気を抜いて本心を吐き出していた。要約すれば、今回の戦闘はすでに負け戦であること、そして目的が、平和島静雄の「処分」であること。
これを聞いたとき、臨也は素直に驚いた。主観なしに今までの戦績を考慮すると、彼を失うのは軍にとって大きな損失になるだろう。しかしこの意見は容易に想像ができる。特殊戦闘部隊のその兵器性としての強さは皆認めるところだったが、彼らと一緒に任務にあたるとなると話は別のようで、必ずといっていいほど個人任務が与えられる。要は一緒に行動したくないのだ。末端の兵士たちはただ強い便利な奴がいるぐらいにしか考えておらず、恐怖もあるのだろうがそれを無理にでも隠して友好的な態度をとっていた。彼らの方がよほど優秀に感じた。
これはとんだ拾いものである。臨也はイヤホンを外し、レコーダーはそのままにしてテントの外に出た。そして静かな明莉のともる野戦用テントを順番に、丁寧に訪問していった。
* * *
銃声が止んだ。しかし敵兵の足音や戦車のキャタピラが鳴らす音は止まない。こちら側の残党を探しているようだった。
不意に臨也が胸ポケットに入れていた無線機に音が入った。引き上げの合図である。
「やっとか……」
「遅すぎ」
しかし静雄の無線は反応していなかった。それを特に静雄は気にすることは無かった。むしろ、気にもかけていなかっただろう。それは臨也の想定の内だった。向こうはおそらく自分と静雄が一緒にいることには気づいていない。
「走るぞ」
「言われなくとも」
まぁ、帰っても君の居場所はないと思うけどね。
その言葉は言わずに、袖口とブーツの内側にナイフを隠していることを確認して、臨也は静雄の後を追った。
基地までは直線で数キロメートル。疲弊した体には酷だが走れない距離ではない。盾となる瓦礫の多い道を選択し、周りに注意を払いながら二人は走った。戦場となった街の様子は酷いものだった。無事な建物は一つとない。辛うじてバランスを保って立っているビルはあるが、ふとした拍子に壊れかねない。舗装されていた道はアスファルトがはがれ、砂の地面が露わになり煙っていた。ところどころ、瓦礫には赤黒い飛沫が散っていた。横転したらしい戦車からはガソリンが漏れ、いつ引火するともわからない。先ほどまでの轟音のせいで静けさを感じた。気持ち悪いぐらいの静けさだった。敵方の戦車のエンジンが遠い。いや実際はそんなに遠くないのだろうが、轟音で耳がやられているのかもしれない。
途中ライフルを持った敵の一団を見つけ、二人は瓦礫に身を隠した。勘のいいやつだったようで、二、三発先ほどまでいた場所に発砲された。しかしそれ以上はなく、彼らは周りを警戒しながら歩いて行った。
「危なかったな……」
「やるねー」
瓦礫から様子を覗うと、再度二人は駆けだした。
何事もなく基地にたどり着けるとは思っていないがとにかく走れるだけ走った。静雄も同じ考えのようで、まわりを確認しながらも走ることに集中していた。
途中、臨也は脇を見て目を見開いた。
「!」
鉄筋がむき出しになったビルの上、こちらを見て銃を構えている軍人がいた。纏う服は自軍の兵士のもの。そしてその照準は自分を捉えていなかった。赤いレーザスコープが静雄へと蛇行した。
思わず踏み込み、前を走る静雄を突き飛ばした。
「ッ!」
突然押され、静雄はバランスを崩して前に傾き、瓦礫の陰に滑り入った。直後、地面が爆ぜる音が鳴った。銃声はない。サイレンサーだった。臨也はすぐに態勢を立て直し、自作の爆薬を投げつけた。外すとは思っていなかった軍人は反応が遅れ、そのまま爆発に巻き込まれた。殺人用ではないので殺傷能力は低いが、気の立った軍人を驚かすには十分だった。
突き飛ばされた静雄は起き上がると、振り返って臨也の方を見た。
「なにしやが」
「走れ!」
その突然の大きな声に静雄は抗議の言葉を飲み込み、走り出した。その後を臨也は追った。これで自分が彼らに背いたことは確実に伝わる。
「こっち!」
真っ直ぐ正直に基地に戻ろうとする静雄の腕を引き、臨也は道をそれた。
「おい、そっちじゃねえだろ」
「いいから来る!」
ちらりと上を見上げると、先ほどの兵士が再度銃を構えていた。思ったより早かったな。臨也は舌打ちをすると、静雄の方を見た。
静雄は臨也と同様、先ほどまで上を見ていたようだった。下を向いたその顔は驚いていたが、わずかに納得したような諦観も含んでいた。
銃声に追われるように、二人は戦場を駆けた。
* * *
夜。
ついに基地に戻ることは無かった。静雄は臨也に引かれながら荒廃した建物の中に入った。そこにはブランケットや食料など自軍の配給物が置いてあった。臨也が用意したものだ。静雄は思った。戦場に似つかわしくない、穏やかな時間だった。お互い無言のまま、月の光が差す廃墟を眺めた。恐らくもともと解体予定の建物だったのだろう。コンクリートの柱が立つだけで、机も椅子も何もなかった。
臨也はそうだと言わんばかりに立ち上がり、置いていた機材を組み立て、ヘッドフォンを耳に掛けた。するとノイズ交じりに音声が入ってきた。どうやら基地に残してきた盗聴器はまだ見つかっていないようだった。会議室の中は静雄の生存と自分の謀反に慌てていた。謀反の相手が臨也でなければここまで大事にはならなかっただろう。
「基地には帰れそうにないね」
ヘッドフォンを外して、臨也は言った。
「……」
静雄は壁際に寄り、肩からブランケットをかけ、俯いていた。
「あいつ、味方だったよな」
「うん。第八部隊の隊長だ」
臨也は淡々と答えた。彼は軍によく従い、また静雄にも比較的友好的だった。これが最悪の関係で、お互い嫌悪しかなかったらどんなに良かっただろうか。彼はどんな気持ちで静雄をスコープの先から見ていたのだろうか。仲間か。人間か。化け物か。それは臨也もあずかり知らぬところだった。
静雄は膝を額によせ、長い息を吐いた。
「絶望した?」
臨也は静雄の横に腰を下ろし、静かに問いかけた。
「……お前は知ってたんだな」
静雄は自分が被っているブランケットや食料の入った荷物を見て言った。用意が周到すぎた。確実でない限り、こんな無駄なことはしないだろう。
「盗聴器をちょっと置いておいたんだよ」
人に使われるのって心底嫌いだからさ。
臨也は口元に笑みを浮かべながら言った。
「それに、他人の都合でシズちゃんが死ぬのは嫌だから」
同時に、遠くで爆発音がした。
「なっ!」
思わず静雄は立ち上がった。その爆音は自分たちの陣地の方向からだった。あわてて廃墟から駆け出して見れば、自分たちの基地は煌々と明るかった。
「お前!」
そして激情に任せ、静雄の後を追ってきた臨也の胸倉を掴んだ。「別に俺は悪いことはしていないよ?」
肩をすくめ、臨也は静雄の手に手を重ねた。
「軍の大事な兵器を壊そうとした反逆者を粛清しましたって言っちゃえば良いんだから」
そう言って、臨也はレコーダーを振った。恐らく今回の作戦会議の音声が入っているのだろう。しかしそんな上層たちのことはどうでもよかった。静雄にとって心配だったのは彼らに動かされている側の人間たちだった。
「下の奴らは関係ないだろ!」
「彼らは、まぁ逃げれば大丈夫なんじゃない?」
あくまで臨也は冷静だった。静雄はその態度にさらに神経を逆撫でされたが、踏みとどまった。
「死にたくなければ一時に荷物持って集合ってことで十キロ離れた山間を集合場所にしておいたから」
「……」
静雄は手を離し、数歩下がった。
「とりあえず今日はもう寝よう」
乱れた襟首を直しながら、臨也は静雄に目くばせをした。
廃墟に戻る臨也の背に、静雄は言った。
「お前、敵か?味方か?」
その言葉に臨也は足を止めた。
「俺は俺の味方だよ」
そう言って中に戻っていく背中が、静雄は果てしない不信感とともに、少しだけ頼もしく感じた。
付随。
廃墟は風通しが良かった。夜ともなれば気温も下がり、風も冷たく感じられた。臨也は冷えた指先をじっと眺めながら、傍で横になっている静雄の背を見た。規則正しく肩が上下していたが、寝てはいないようだった。臨也は静雄のすぐ横に寝転がった。少しだけ温かい感じがした。
すると体勢を変えようと、静雄は反対側を向いた。なぜかすぐ近くに呼吸音が聞こえ、静雄は目を開けた。すると、臨也と目があった。あまりに突然のことに静雄は頭がついていかなかった。鼻先十五センチほどに臨也がいた。
「……おい、何で」
「だって寒いの嫌だから」
何と自分勝手な。静雄は離れるために起き上がった。しかし臨也はすでに静雄の腰に手を回し、完全に寝る態勢に入っていた。まるで猫がじゃれつくように頭を擦りよせてきた。
「シズちゃんあったかーい…」
「は、な、れ、ろ」
そう言いながら臨也の頬に触れたのだが、それが異様に冷たかったため、振り払うに振り払えなくなった。そのまま凍え死んでしまえばいいのになんて思ったが、今回は借りがある。振り払うことを諦め、静雄は臨也に背を向けて横になった。背中に額が当たる感触があった。
「………本当、シズちゃんが人間だったらよかったのに」
小さな呟きだった。本音かどうかは図れない。
「……あぁ、俺も人間でありたかったよ」
静雄は自分の本音を語った。別に自分はあくまで人間だが、こんな膂力を持っていない人間でありたかった。
「早く戦争、終わんねーかな」
毎日戦場に駆り出されては精神がすり減る。怒りにまかせて力を奮うが、あとに残るのは虚無感と猜疑心だけだった。自分は何をしているのか。何のために。
背後から静かな呼吸音が聞こえ、静雄もそれに倣うように目を閉じた。
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